人生は、わたしの普通を探す旅。


 

「普通」って何だろう?ということを
小さい頃から結構に思っていたような気がする。

「普通はそうでしょ?」
「普通だったらこうするでしょー!」
「普通にすればいいのに」

普通、フツウ、ふつう。

・・・って、なに?

「普通」というのは、
「世間で言うところの普通」

それこそ高校を卒業したら大学に行って、
卒業したら就職をして、
その内に結婚をして子供を産んで・・・

っていう、そういう普通。

女の人として生まれたら
そういうルートを辿るのが「普通」で、
「良いもの」とされていて、
わたしもやっぱり、それが「普通」だし
「良いもの」だと思っていた。

・・・のだけど、

それ、わたしには普通じゃないし!

ってことを、
先に書いた例の話ではなくて、
もっと小さくて細かいところで、
「世間の普通」が
「自分の普通」とは違うというのも
小さい頃からなんとなくは感じ取っていて、

「世間の普通」を良しとする自分と
「自分の普通」を良しとする自分が

自分の中に、同時に存在していて、
時にそれで、自分がどうしたらいいのか
よく分からなくなっていた。

世の中の普通で生きれたら、
それが1番いいのかなって思っていて、
ある意味、そういうのに憧れていた。

それが「良いもの」
という思いを、持っていたから。

なのだけど、
どうにもその「普通」に収まれない自分がいて、
だけどそれを良しとしていたので、
求めて、やってみて、結局はそのどれもが
「自分の普通」に落ち着いていく。

それは少なくとも
「わたし」にとっては良い形で、
それでいい筈なのに、
「世間の普通」とは違うから
基本的にはそれで良しとしていても、
これでいいのかな?って、たまに思ってしまう。

一体いつまで、
わたしは「普通という憧れ」に
チラチラと意識を向けたら気が済むんだろう。

(そんな自分は、
しょーがないなーって愛しくも思える。笑)

そもそもが、
「普通」というのは、
「世間で言うところの普通」であって、
「世間一般の平均値」であって、

でも、その世間って一体なによ?という話で。

「世間」というのは、
昔からの文化や慣習で
「過去の人たちを元に」
いつの間にか常識とされたものであり、

「普通」というのは、
その過去から作り上げられた常識を守った
その前提があっての「平均値」で、
平均値ということは、そこに突出するものはない。

だから「普通」を追い求めると、
「自分という個性」は姿を消す。

(普通にうまくフィットする形で
個性を発揮できる人も、たくさんいるけれど)

世の中的に、「普通」で
「良いもの」とされているものは、
就職や結婚、出産みたいに
人生的に大きくて分かりやすいものに限らず、
日常の小さな物事にも、
分からないぐらいに、細かく、細かく、
「常識」や「ルール」という形で散りばめられている。

だから「世の中の普通」に、
わたしたちはとてもスムーズに馴染んでいるし、
だから憧れもするし、追い求めもする。

なんとなく、
そうじゃないといけないような気持ちになる。

だけど、本当に求めなきゃいけないのは
「自分にとっての普通」で、
「自分にとっての良いもの」だから、
いい加減に、この憧れと幻想を諦めて
自分の好きに生きたらいいじゃないって、
自分にも、みんなにも思っている。

人生は、「わたしの普通」を探す旅。

人生設計的な大きなものから、
日常の小さくて細かなものまで、
そのひとつひとつに、

「わたしの普通」
「わたしにとっての良いもの」

が潜んでいる。

見付けていくのはとても楽しいし、
見付けたら、自信をもって選択して、
選んだ自分に、誇りをもって生きれたらいい。

 

●関連記事:「病める時も健やかなる時も」の難しさと、振れ幅で違うのが普通の自分。

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